沖縄県本部町瀬底方言の自然談話

共通語 方言(音声記号) 方言(かな) 音声
えー 今ほど ほんとうに もう 下男子の 哀れな こと、話しも んー ありますが、その 笑い話も あれば また 非情な もう 大変な えー、 哀れ 話しも あります。 eː nama-hudu ntʃa naː dʒiniŋkwa-nu ʔawari-nu kutuː hwanaʃiː-ɴ ɴː ʔaibiːʃiga ʔunuː warai-banaʃiː-ɴ ʔariːba mata hidʒoː-nu na deːdʒina eː ʔawaribanaʃi-ɴ ʔaibiɴ. えー なま-ふどぅ んちゃ なー ぢにんくゎ-ぬ ^あわり-ぬ くとぅー ふぁなしー-ん んー ^あいびーしが ^うぬー わらい-ばなしー-ん ^ありーば また ひぢょー-ぬ な でーぢな えー ^あわりばなし-ん ^あいびん.
ちょうど 7月の もう 旧暦の 7月の 遊び だったらしい よう ですが。 tʃoːru hitʃigwatʃi-nu naː kjuːnu hitʃigwatʃi-nu ʔaʃiːbi jateːgiʃeɴ huːdʒi jeːbiʃiga. ちょーる ひちぐゎち-ぬ なー きゅーぬ ひちぐゎち-ぬ ^あしーび やてーぎしぇん ふーぢ いぇーびしが.
もう 思いがけないウリーに 当たって しまったものだから もう 下男子(を) 遊ばせないで もう 昼間から でかけて 行って カズラ(を) 植えさせたらしい ようなのに、 na hwanta-ʔuri ʔataːti hitʃihitʃaː-gutu naː dʒiniŋkwa ʔaʃibasaːnu naː pimmaː-hara ʔidʒiːti ʔidʒi haɴra ʔuiratʃeː-giʃeɴ huːdʒi jeːbimmunnu, な ふぁんた-^うり ^あたーてぃ ひちひちゃー-ぐとぅ なー ぢにんくゎ ^あしばさーぬ なー ぴんまー-はら ^いぢーてぃ ^いぢ はんら ^ういらちぇー-ぎしぇん ふーぢ いぇーびんむんぬ,
それで もう 夜に 入っても(暗くなっても) エイサー(盆の踊り)も しよう、7月遊びも しょう といって しているが 主は 帰さず。 ʔaɴʃi naː juː ʔittʃin naː jeːɴsaː-ɴ ʃiːbareːru hitʃigwatʃi-ʔaʃiːbi-ɴ ʃiːbareːru ritʃi soːʃiga naː nuʃi-ja keːsanu. ^あんし なー ゆー ^いっちん なー いぇーんさー-ん しーばれーる ひちぐゎち-^あしーび-ん しーばれーる りち そーしが なー ぬし-や けーさぬ.
そうすると もう その 下男子たちが 「どうだ これは もう いたずするしか ない」といって カズラ(を) 全部 さかさま植え(に) して、 したらしい ようですが。 hitʃaːkutu naː ʔnunu dʒiniŋkwaː-ga "riː kuriː naː watʃaːku ʃiːba nairu" ritʃi kaɴra muru sakaʃima-ʔui hitʃi hitʃeː-giʃeɴ huːdʒi jeːbiːʃiga. ひちゃーくとぅ なー ^ぬぬ ぢにんくゎー-が "りー くりー なー わちゃーく しーば ないる" りち かんら むる さかしま-^うい ひち ひちぇー-ぎしぇん ふーぢ いぇーびーしが.
えー 翌日 主が 行って 見て みたところ ほんとうに もう さかさまに 植えて しまって もう それは 世の吉凶によるものだ、 ほっておけ と言って あのまま(に) したところ もう (か んー) カズラですから もう もう 生えているわけですね。 eː naːʔattʃaː nuʃi-nu ʔidʒi mitʃi hitʃakutu ntʃa naː sakaʃima -ʔuitineːnu naː ʔureː juːna-muɴ reːru hannagitoːkeː ritʃi ʔaɴʃimaːmaː hitʃaːkutu naː (kaɴ ɴː) kaɴra reːkutu naː naː muitoːm-baː jeːbiteɴsai. えー なー^あっちゃー ぬし-ぬ ^いぢ みち ひちゃくとぅ んちゃ なー さかしま -^ういてぃねーぬ なー ^うれー ゆーな-むん れーる はんなぎとーけー りち ^あんしまーまー ひちゃーくとぅ なー (かん んー) かんら れーくとぅ なー なー むいとーん-ばー いぇーびてんさい.
えー それが また 芋が 大変 入って(実って)ですね。 eː ʔuri-ga mata ʔumuː ʔimikutʃi ʔittʃijoːsai. えー ^うり-が また ^うむー ^いみくち ^いっちよーさい.
そうしたら もう それも 一つの 笑い話ですが。 ʔuruhitʃaːtu naː ʔuri-n tiːtʃi-nu warai-banaʃiː jeːbiːʃiga. ^うるひちゃーとぅ なー ^うり-ん てぃーち-ぬ わらい-ばなしー いぇーびーしが.
もう一つ(の話し)は ちょうど もう 下男子(として) 人に 使われるのは あの当時 もう あー 米も ない ご飯も ない ぐらいであった 時代ですから、 もう 正月の 豚肉、もう それこそが まちどうしいことだったらしいようですのに。 naː-tiːtʃi-ja soːru naː dʒiniɴgwa tʃuː-neː ʃikarariːʃija ʔantoːdʒi-ja naː aː kimi-n neːnu meː-n neːnu ʔatai (reː eː) jeten dʒirai jeːbiːtu naː soːgwatʃi-nu ʔwaːʃi naː ʔuri-ru matʃikanteː jateː-giʃeɴ huːdʒi jeːbiːmunnu. なー-てぃーち-や そーる なー ぢにんぐゎ ちゅー-ねー しからりーしや ^あんとーぢ-や なー あー きみ-ん ねーぬ めー-ん ねーぬ ^あたい (れー えー) いぇてん ぢらい いぇーびーとぅ なー そーぐゎち-ぬ ^わーし なー ^うり-る まちかんてー やてー-ぎしぇん ふーぢ いぇーびーむんぬ.
ちょうど 正月の 14日の 日 もう 決まって その 豚肉は もう お椀に 入れて おくのは もう 7切れずつ 毎年毎年 決まっていたらしい ようですが あの、 一回だけ もう 毎年 もう 7切れですから それが 多く なる時も あるかな といって その 話し(を) しながら その 下男子達が 集まっていて soːru soːgwatʃi-nu dʒuːjukka-nu hiː naː kimaːti ʔunu ʔwaːʃi-ja na mahai-neː ʔinti-kuːʃija na nanahaki-naː meːnim-meːniɴ kimatiː-giʃeɴ huːdʒi jeːbiːʃiga, ʔan tʃukeː naː na meːnin naː nanahaki reːbiːtu ʔuri-ga ʔuhoːku naim-baː ʔai-ga suːrajaː ritʃi ʔunu hwanaʃiː saːgatʃinaː ʔunu dʒiniɴgwa-taː ʔatʃimatuti そーる そーぐゎち-ぬ ぢゅーゆっか-ぬ ひー なー きまーてぃ ^うぬ ^わーし-や な まはい-ねー ^いんてぃ-くーしや な ななはき-なー めーにん-めーにん きまてぃー-ぎしぇん ふーぢ いぇーびーしが, ^あん ちゅけー なー な めーにん なー ななはき れーびーとぅ ^うり-が ^うほーく ないん-ばー ^あい-が すーらやー りち ^うぬ ふぁなしー さーがちなー ^うぬ ぢにんぐゎ-たー ^あちまとぅてぃ
ある 家庭の ですよ、んー 集まっていて もう 話し(を)していたらしいようだが、 ʔaru kineː-nu reːbiɴroː ɴː ʔatʃimatuti naː hwanaʃiː suːtʃeː-giʃeɴ huːdʒi jeːbimunnu, ^ある きねー-ぬ れーびんろー んー ^あちまとぅてぃ なー ふぁなしー すーちぇー-ぎしぇん ふーぢ いぇーびむんぬ,
非常に この 滑稽な 青年が いた んー いたらしいようですが、「14日の 肉は 定まっている 3切れか 知らないが 7切れも あるだろうか」といって その 若い 青年が もう 台所で歌(を) したらしいようだのに。 hidʒoːni kunu kokkeina niːʃeː-ga wutaɴ ɴː wuteː-giʃeɴ huːdʒi jeːbiʃiga "tukajukka-nu ʃiʃi-ja saramatinu mihaki ʃiran nanahaki-ɴ ʔaiga suːra " ritʃi ʔunu wakaʃeː-nu na tuŋgwa-neːti ʔuta hitʃeː-giʃeɴ huːdʒi jeːbiːmunnu ひぢょーに くぬ こっけいな にーしぇー-が うぅたん んー うぅてー-ぎしぇん ふーぢ いぇーびしが "とぅかゆっか-ぬ しし-や さらまてぃぬ みはき しらん ななはき-ん ^あいが すーら " りち ^うぬ わかしぇー-ぬ な とぅんぐゎ-ねーてぃ ^うた ひちぇー-ぎしぇん ふーぢ いぇーびーむんぬ
そこで ここの 男の主は それを 聞いて 「なるほど もう かれらが 言う 歌(を) 聞いて みれば 毎年ずつ なるほど 肉(を) そんなに 食べさせては いけないから もう きょう、 きょうの場合は 少しは もう 多く 食べさせなさい といって、 自分の この ( )ある 下男子(を)呼んで、 肉も 多くして 食べさせたという、たべさせたという 話があります。 ʔaɴsaːi maːnu jikiga-nuʃi-ja ʔuri kitʃi "toː naː ʔun-taː-ga ʔjuːnu ʔuta kitʃi miriba meːnin naː nntʃa ʃiʃiː ʔussa-naː kamaːtʃi naraɴ-gutu naː kuː-nu kuː-nu-baː-ja ʔihija naː ʔuhoːku kamaʃeː " ritʃi ruː-nu kunuː (nnidʒi) ʔan dʒiniŋkwa juri ʃiʃi-ɴ ʔuhoːku natʃi kamaʃimitaɴ ritʃinu kaːtʃaɴ ritʃinu hwanaʃi-nu ʔaibiɴ. ^あんさーい まーぬ いぃきが-ぬし-や ^うり きち "とー なー ^うん-たー-が ^ゆーぬ ^うた きち みりば めーにん なー んんちゃ ししー ^うっさ-なー かまーち ならん-ぐとぅ なー くー-ぬ くー-ぬ-ばー-や ^いひや なー ^うほーく かましぇー " りち るー-ぬ くぬー (んにぢ) ^あん ぢにんくゎ ゆり しし-ん ^うほーく なち かましみたん りちぬ かーちゃん りちぬ ふぁなし-ぬ ^あいびん.
もう一つは また あの 大麦といって それは4.5月に とれる(収穫できる)大麦(いー)ですが。 naːtiːtʃi-ja mata ʔanu ʔuhu-mugi ritʃi ʔureː-ja ʃiguɴ-gwatʃi-neː turariːnu ʔuhu-mugi (jiː) jeːbiːʃiga. なーてぃーち-や また ^あぬ ^うふ-むぎ りち ^うれー-や しぐん-ぐゎち-ねー とぅらりーぬ ^うふ-むぎ (いぃー) いぇーびーしが.
大麦は 臼に 入れて 挽いて そして あー もう 上の 皮(を) とれば もう 麦飯とか (に) して 食べられるわけですから (それ こめ)んー 大麦(を) 挽かせたらしいようですのに ʔuhu-mugi-ja ʔuʃi-neː ʔinti hitʃi soʃite aː naː ʔwaːbi-nu haː turiba na pira-meː-tuka hitʃi kaːrimbaː jeːbiːtu (ʔuri kumiː) ɴː ʔuhu-mugi ʃikatʃeː-giʃeɴ huːdʒi jeːbiːmunnu ^うふ-むぎ-や ^うし-ねー ^いんてぃ ひち そして あー なー ^わーび-ぬ はー とぅりば な ぴら-めー-とぅか ひち かーりんばー いぇーびーとぅ (^うり くみー) んー ^うふ-むぎ しかちぇー-ぎしぇん ふーぢ いぇーびーむんぬ
もう あの当時は 分からず ただ 挽きつづけると もう あと 皮が むける といって だったらしい よう ですが、もう 夜夜中まで もう 麦を(しか) 臼に 挽かされて したところ その 女の子が あまりの 哀れさの 上に もう 涙が 出て きて その 涙が 次第次第に 臼へ 入って そしたら その 挽きやすく なって いって すぐに もう その 大麦も きれいに なって その 麦飯も して 食べられる ように なったといった 話し。 naː ʔantoːdʒi-ja wakaran tara ʃikikurubaʃiba na ʔatu haː mugiɴ ritʃi jateː-giʃeɴ huːdʒi jeːbiʃiga naː juruːjunaka-mariːn naː mugiː (ʃika) ʔuʃineː ʃikasatti ʃitʃaːtu ʔunu jinagu-waraːbi-nu ruku ʔawaːrinu ʔuini naː naraː ʔidʒiːti tʃi, ʔunu naraː-nu ʃiɴreːʃiɴreː ʔuʃiɴ-gati ʔittʃi hitʃi-hittʃaːtu ʔunu ʃiki-jaʃʃiku nati ʔidʒi tareːma naː ʔunu ʔuhu-mugin tʃuraku nati ʔum pira-meː-ɴ hitʃi kaːriɴ-gutu nataːɴ ritʃi hwanaaʃi. なー ^あんとーぢ-や わからん たら しきくるばしば な ^あとぅ はー むぎん りち やてー-ぎしぇん ふーぢ いぇーびしが なー ゆるーゆなか-まりーん なー むぎー (しか) ^うしねー しかさってぃ しちゃーとぅ ^うぬ いぃなぐ-わらーび-ぬ るく ^あわーりぬ ^ういに なー ならー ^いぢーてぃ ち, ^うぬ ならー-ぬ しんれーしんれー ^うしん-がてぃ ^いっち ひち-ひっちゃーとぅ ^うぬ しき-やっしく なてぃ ^いぢ たれーま なー ^うぬ ^うふ-むぎん ちゅらく なてぃ ^うん ぴら-めー-ん ひち かーりん-ぐとぅ なたーん りち ふぁなあし.
それから えー もう その 大麦は 水(を) 入れて 搗けば 早く その 食べられるように なるね といって 水(を) 入れて 搗き始めたという 話し。 ʔuri-kara eː naː ʔunu ʔuhu-mugija midʒi ʔinti ʃikiːba heːku ʔunu kaːriɴ-gutu naisajaː ritʃi midʒi ʔinti ʃikihwadʒimataɴ ruːnu hwanaʃiː. ^うり-から えー なー ^うぬ ^うふ-むぎや みぢ ^いんてぃ しきーば へーく ^うぬ かーりん-ぐとぅ ないさやー りち みぢ ^いんてぃ しきふぁぢまたん るーぬ ふぁなしー.
もう 昔の もう 稼ぎ方も ない、 下男子達と して もう 資産家に あのように 使われるのも ほんとうに もう いろいろの 哀れ話、また いろいろの 笑い話も なにもかも ありは しますが、もう それは それと して もう 昔話と して もう 聞く だけでも すみはしないかなと、また それ(を) 聞いて 今の 子供たちが もう また 一つの 精神的な 教育に なれば また よい 話ではないかなと おもっている 次第です。 naː mukaʃinu naː moːki-kataːn neːn, dʒiniŋkwa-ta hitʃi naː ʔeːkintʃu ʔaɴʃi ʃikarariːʃiɴ huntoː naː ʔiru-ʔirunu ʔawari-banaʃiː mata ʔiru-ʔirunu warai-banaʃiː nuŋkui ʔai-ja sabiːʃiga naː ʔuri-ja ʔuri-tu hitʃi naː mukaʃi-banaʃiː-tu hitʃiː, naː mukaʃi-banaʃiː-tu hitʃi na kikuːnu ʔussaʃeː jatiɴ ʃimi-ja saɴ-gaja mata ʔuri kitʃi nama-nu warantʃaː-taː-ga naː mata tiːtʃi-nu ʃeːʃinteki-nu kjoːʔiku nariːba mata ʔiː hwanaʃi ʔaraŋgaja-ri ʔumutoːɴ ʃireː jeːbiɴ. なー むかしぬ なー もーき-かたーん ねーん, ぢにんくゎ-た ひち なー ^えーきんちゅ ^あんし しからりーしん ふんとー なー ^いる-^いるぬ ^あわり-ばなしー また ^いる-^いるぬ わらい-ばなしー ぬんくい ^あい-や さびーしが なー ^うり-や ^うり-とぅ ひち なー むかし-ばなしー-とぅ ひちー, なー むかし-ばなしー-とぅ ひち な きくーぬ ^うっさしぇー やてぃん しみ-や さん-がや また ^うり きち なま-ぬ わらんちゃー-たー-が なー また てぃーち-ぬ しぇーしんてき-ぬ きょー^いく なりーば また ^いー ふぁなし ^あらんがや-り ^うむとーん しれー いぇーびん.